細川文昌写真作品 アノニマスケイプ行旅死亡人の風景は1999年ニコンサロン銀座東京にて発表されました。アノニマスケイプは、アノニマス+スケープのSの読みを重ねた造語というか、この聞き慣れない表題は、写真家の口をついてでた言葉で、名前の無い風景ということでしょう。写真の誕生は、1826年とされ、それほど遠い昔ではないのです。
日本にも、およそ明治期に輸入され、昭和初期から、写真材料が大量に入り、各地に写真館を経営する、写真師、アマチュア写真愛好家が続々と生まれ、多くの芸術写真家が登場してゆきます。さらに、第二次世界大戦後、都市は焼け跡から大きく復興し、風景の変貌、さらに高度成長期、(この頃、細川文昌は新潟に生まれます)大量消費社会に多くの写真家の視線の対象は、都市の視線(飯沢耕太郎)となって向けられて行きます。
ところで、細川文昌のアノニマスケイプとはいったい何をさしているのでしょう、我々が生きる21世紀の今日、未開や秘境と呼ばれる場所は、もうほとんど存在しなくなったのでしょう、世界はその全ての事物、現象には意味される名称がありほとんど言語化されているのです。名所旧跡、歌枕’(和歌で詠われ偲ばれ古くから知られた土地)、人も、もっとも始めは名前は無かったはずです。
ところが、写真家は発見したのです!。無名の風景、アノニマスケイプを。彼も他の写真家と同じ様に写真の素材を探し、外国や都市の新しい光景を、決定的瞬間をスナップショットの手法で追い探し回っていたのです。ある日、いつもの様に、ポッカリと其処だけ、時代から置きさられた空間、未来に向かって発せられる記憶の断片を記録しようと、まだ昭和の面影の残された、上野駅界隈をさまよい歩いていたのです。
ふと台東区役所前まで来て、ある掲示板に目が止まったのです。そこには、行旅死亡人○○○といふ、見慣れない公示文書の区民へのお知らせであった。
内容は、いわゆる行き倒れで亡くなった人、身元不明の引き取り手ない病死者の身体的特徴、推定年齢、発見当時の状況、服装、所持品等が記載されたものだった。
それは、写真家細川に直感と衝撃をもたらし、その結果細川の写真家としての活動は変わってしまうのです。掲示板をじつと注視するその姿が、彷彿とさせられます。
これまでに、恐らく膨大に撮影された彼の写真の数々、、直感は確信に変わります、周到に公文書が保存された国立国会図書館に足を運び、アーカイプ、法律を、歴史を調べ、
資料を集めた上で、掲示された住所に、そこに存在する、無名の風景に向かい始めたのです。それ以来美的構図も、決定的瞬間もそれほど考えずに、現場を探し、ひたすら撮影、記録する旅が始まったのです。
そうして、細川文昌写真集「アノニマスケイプこんにちは二十世紀」2002年に出版されたのです。
長岡 津慶